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中野区あれこれ

中野区の歴史

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 先史・原始時代

旧石器時代は富士山をはじめとした火山が活発に活動していた時代。この頃中野区地区は、最終氷河期にあたり、今より気温が5~6度低く針葉樹林のうっそうとした森だったと言われています。 縄文時代(約2200~11000年前)には、気候も温暖となり、クルミ、ドングリなど植物性の食糧も豊富になり、人々の生活は豊かになります。区内でも北江古田遺跡から漆塗りの耳飾や器の破片、編物・タガがかけられた土器などが出土しており、この頃の生活が想像以上に豊かであったことがあきらかにされています。

弥生時代(約1650~2200年前)になると朝鮮半島から稲作が伝わり、それまでの狩猟・採集生活ばかりでなく安定した農耕生活へと移り変わります。集落は大きくなり、富裕の差も生じるようになり、集落の統括者である首長も成長してきました。区内では、266軒もの住居跡が発見され、新井三丁目遺跡では首長の墓である方形周溝墓も発見されています。

 鎌倉・室町・戦国時代

鎌倉~室町時代になると、金石文史料として板碑が区内各地から発見されており、その分布から、神田川・桃園川・妙正寺川の流域に郷村が存在したことが明らかにされています。また、文献史料としては「熊野那智大社米良文書」の中の貞治元年(1362年)の古文書にはじめて「中野区郷」という名が登場しており、のちに中野区村の基礎ともなる郷村が成立していたことがわかります。
当時、この地域を治めていたと思われる氏族に、秩父平氏の一つ江戸氏の庶流である中野区氏が「米良文書」に登場しますが、他の史料には記載されたものがなく、事跡が明らかではありません。むしろ、石神井城、練馬城に本拠を置いた同じ秩父平氏の流れをくむ豊島氏の支配下に入っていたと思われます。

 江戸・明治時代

江戸城に入った徳川家康は江戸城に本拠をおき、検地を行い支配体制を整備していきます。慶長8年(1603年)江戸幕府が開かれるにおよんで、村々は整備され、中野区郷は中野区・本郷・本郷新田・雑色・江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮各村に分けられました。江戸城建設のための石灰を青梅から輸送するため青梅街道が開かれ、中野区宿が置かれます。

江戸中期以降は石灰輸送の役割は終え、多摩地域からの物資の集荷地として人々の往来も多く、江戸近郊農村として重要な位置を占めるほど発展します。元禄年間に、五代将軍徳川綱吉は「生類憐れみの令」をだし、江戸の野犬を収容するためのお囲いを、中野区につくりました。今の区役所を中心に28万坪もの広大なもので8万頭以上の犬が収容されたとつたえられています。綱吉の死後、廃止されますが8代将軍徳川吉宗によってその一部に桃が植えられ「桃園」がつくられました。江戸後期には庶民にも開放され花見スタイルの源にもなりました。

また、中野区地域は将軍家の鷹場としての性格もあり、宝仙寺・東福寺はその休憩所に指定され、桃園・上高田・中山(今の東中野区小周辺)に御立場(鷹狩りの本陣)があったことが知られています。幕末になると、中野区地域は物資の集荷地という特性を生かして、それらの物資を原料とした製粉業・味噌・醤油など醸造業が盛んになりました。このことは、製粉用の淀橋水車が、幕府の火薬製造に急遽転用されたことからもうかがわれます。

 中野区の成立

明治元年(1968年)、江戸が東京と改められ、この地域は武蔵県となりました。その後、品川県→東京府→神奈川県→東京府とその管轄はめまぐるしく変わりました。

明治22年(1889年)には町村制が施行され、中野区・本郷・本郷新田・雑色の4か村が中野区村に、江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮各村が野方村になりました。この年には新宿・立川間に甲武鉄道(今のJR中央線)が開通して中野区駅ができました。これによって軍施設や公的施設が沿線につくられ、いままでの青梅街道沿いとは別な新たな町が形成されるようになりました。

昭和2年(1927年)に西武新宿線が開通して野方地域の交通網はほぼ現在と同じように形成されます。昭和7年(1932年)中野区誕生以降、宅地化の進行さかんになり、昭和13年(1938年)段階には、農業地域は江古田・鷺の宮周辺だけといったように減少します。

やがて太平洋戦争がはじまり、中野区からも多くの兵士が戦場に向かう事になります。米軍の空襲がはじまると、住宅密集地域の家屋は強制的に破壊されたり、小学生は長野県・福島県に疎開し、中学生以上は軍事工場で働くといった状態になりました。食糧不足も深刻で、窮乏生活を強いられました。しかし、戦後の復興はめざましく、人口30万人を擁する、都心に隣接したベッドタウンとして、戦前以上の発展をとげ現在にいたっています。

(中野区資料提供)